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決断した引っ越し [放射線量]

朝日新聞に掲載された記事を紹介します。

2011年3月12日に福島第一原発の1号機が爆発したとき、宮城県丸森町北部の耕野地区
の林業小山田竜二(38)は、一度は逃げ出そうと考えた。耕野地区も福島県境で、第一原発
から60キロしかない。

だが、避難できなかった。ガソリンがなかったこともあるが、もっとも大きかったのは、地元住民が
転入者を「世話になっておきながら、いざとなったら逃げだすなんて」と批判しているという話を
聞いて、動くに動けなくなったからだ。

小山田は仙台市からの転入者だ。
09年、自然の中で、自然を相手にした仕事をしたくて移住してきた。その2年後の事故だった。
11年3月末、ガソリンも手にいるようになり、仕事を再開した。

「放射能への不安はあったが、耕野が気に入っていたし、人間関係も壊したくなかった。ここに
いるしかないと腹をくくりました。」

2人の息子が当時、6歳半と1歳半だった。妻の伊織(42)も不安が大きかったが、小山田が
自宅を改修し、屋根を雑巾で拭いたり色を塗り替えたりしているのを見て、何も言わなかった。
このころ、友人から借りた線量計で自宅の周囲を測った。

毎時、1。5マイクロシーベルト。それが7月にはコンマ以下にまで下がった。
しかし、風が吹くと空間線量が上がった。野山に積もった放射性物質が飛んでくるとしか考えら
れない。

子どもを外で遊ばせるのは危険だ、と思うようになった。
阿武隈川に近い小山田の自宅では、10月にもなると台所でストーブを使う。まきを燃やすと、
灰の線量が高いと聞いていた。

11年の10月中旬のある日、夕方に帰宅した小山田に伊織がいった。「やっぱり線量が上がったよ」
伊織はずっと、使用前のまきとはいの線量を比べていたのだ。
小山田は台所の椅子にどっかり腰を下ろして目をつむった。

家も直した。除染もした。何をやっても状況は変わらない。数分間考え込んだあと、立ち上がった。
「やはり、引っ越そう」伊織は「夫が決めてくれて、ほっとしました。」という。世話になった地元
住民への感謝は大きかったが、子どものことを考えると引っ越したい気持ちは強かった。

小山田一家は丸森を出た。福島第一原発の事故から1年が過ぎた12年3月だった。

私の住んでいるところは川内原発から40~50キロ離れています。鹿児島市は40キロぐらいの
ところにあります。風向きを考えると怖いです。再稼働は無理でしょうというのが本音です。












































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タグ:避難
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